基和戸/キーワード

本人中心の「マイサークル」を

「私の〝おうち〟は・・・」という声から生まれたホーム

Sさん(女性)は当時24才でした。当事業所で宿泊体験をされた折りには、好きな番組を再生しながらテレビの前で歌って踊るなど楽しんでいる様子でしたので、ご両親の願いもあってグループホームに週2回宿泊することになりました。建物は一戸建てを法人が取得し2名定員の共同生活住居としました。同居されるもう一人の女性とは共に〝にぎやかなタイプ〟でもあり、お互いにあまり気にしていない様子でした。順調に滑り出した新しい生活でしたが、Sさんのお母さんが闘病の末に亡くなられ葬儀となりました。その間はSさんも想定外の連泊が続きました。きっと「どうして家に帰れないのだろう。いつになったら帰れるのか」という気持ちだったでしょう。不安やストレスから、パニックや掴み掛かりもみられました。家庭では主たる介護者だったお母さんが亡くなったため、彼女のホーム宿泊が続きます。

なんとか二ヶ月が過ぎた頃、気にならなかったはずの同居の利用者さんを極端に避ける場面が出てきたのです。明るかったSさんが痛々しいまでに元気を無くされ支援員も心配しましたが、やがてそこから聞こえてきた本人の内心の声は「母が亡くなって寂しいだけではない。これからはこのホームが自分の住まいになりそうだ。」そして「ならば、どうして私の〝おうち〟に私以外の障害者がいるの?」と言われている気がしたのです。彼女の行動の意味が周りの者たちにはそう映りました。それは取るに足りない訴えだったかも知れません。障がいのある人は学校時代から障害者と一緒に生活されているのですから、障害者同士が同居されることに私たち支援者は違和感がありません。けれどもSさんのイメージにある〝おうち〟は本当にそれでいいのだろうかと議論になりました。ある職員が「彼女が思う〝おうち〟のために引っ越してもらえる家を探しましょうよ」と言い始めました。でもそんな都合のいい物件など見つかるはずはないと、みな思っていました。ところが、その日の夕方に、丁度よい住宅が見つかったのです!法人はこれを共同生活住居として追加することにしました。定員は2名ですが、入居はSさん1名だけというホームです。障がいのある人は障害者と共同生活していくという枠を超えた試みでした。その後、引っ越しを終えたSさんは以前の明るさを取り戻されました。現在は「自分の〝おうち〟」にて毎晩ローテーションで変わる夜勤の職員を受け入れながら暮らしておられます。

 

本人が望まれる暮らしを実現していくために

その条件となる一つは「個人を集団で扱わない」と言うことでしょう。利用者が個別支援計画をもっておられることは当たり前になりましたが、問題はその中身です。記述されていることが、本人への問いかけから始められた計画なのか、事業所が提供できるメニューから考え始めた計画なのかの違いです。例えるなら「ねえ、今日の夕食は何食べたい?」なのか、「ハイ、本日の夕食は皆さん餃子ですので、それでいいですか?」の違いです。私たちは注意しないとすぐに後者を語ってしまいます。本人という存在を集団で扱わずに、個人として考える。これがまずは本人の望まれる暮らしを創りはじめる前段階にあるように思います。こうした発想を実現させるためには、一人の利用者に一人の支援者、つまり1対1の支援体制が望ましいように思います。

一方で仕組みだけあっても、現場でスムーズに支援が可能となるためには支援者間の情報共有も欠かせません。各種記録や会議、チームワークなどが一体的に機能するかどうかで1対1の支援は、質が決まるといえるでしょう。私たちの場合、「コアタイム」という集まりをグループホームのスタッフたちが出勤時と退勤時にもっています。5~10分程度の短いミーティングですが、その日の利用者さんのことを情報共有する貴重な時間となっています。

加えて、物理的な環境も重要だと思います。いくら1対1がよいと言っても、四六時中、支援者がそばで顔を突き合わせていると息が詰まりそうになります。ゆったりした暮らしには、やはり一人で過ごす時間も大切ではないでしょうか。そのためのスペースや、何をして過ごすかによって物品などが必要になってきます。そうした物が揃うことで1対1にはならない時間帯も保証されるのです。要は1対1の支援と、一人で過ごす時のバランスだと言えます。

とりわけ自閉症スペクトラムの方はこの「空き時間」の使い方が苦手だとされますが、ホームにおいても余暇時間の過ごし方を検討したいところです。余暇時間とは、レジャーの意味での余暇もありますが、ここでは日常の空き時間を意味します。これを一人ひとりに合わせて設定したり、再評価したり出来るようになるためには、支援者側に専門的な力量が求められます。自閉症支援の研修会などでの職員のスキルアップが欠かせないでしょう。

 

 

ひとつの支援メニューにこだわらない

これは本人が自分らしく暮らしていくための、同時に支援者が本人中心の支援を展開していくための処方だと思います。

ここで「自分らしさ」とは何かについて考えてみましょう。身近な人に「自分らしさって何?」とたずねても、ズバリ言い切る人は少ないと思いませんか。「自分らしさ」とは、その程度に実態のないものと言えそうです。逆に身近な人の間で「あの人らしいね。」と言うとき、「そうそう。」と肯いたりもします。「らしさ」とは人がある人の印象を他と共有するときに使う言葉で、本人の内実に存在する物でなく周りの人との関係性の中に存在する物だと思うのです。

では障がいのある本人の場合はどうでしょう。利用者は多くを語られません。でも「その人らしさ」は醸し出されます。担当の職員はこれを踏まえて様々な判断をしていきますが、一人の視点だけで充分でしょうか。出来れば多様な視点から「その人らしさ」は共有されている方が豊かだと思うのです。御家族、日中活動の職員、グループホームの世話人、ガイドヘルパー、相談支援専門員、ご近所の住民、地域の役員、馴染みのスーパーのレジ係・・・。それぞれの人は本人の一面しか見てないかも知れませんが、周りの人たちが想う「らしさ」は少しずつ重なり合って、やがて重なりが形成する円形のイメージが浮かんでくるのです。勿論、円の中心には本人がおられるでしょう。私は〝本人を中心としたマイサークル〟と呼びたいです。サークルの中心は一点の方が周りの円は描きやすく、点々がたくさんあると何処に円を引いたらいいのか分からなくなります。本人中心支援は、「集団でなく、個を出発点に」考えるべきなのです。円を描くときは、フリーハンドで一気に線を引くよりも、何回か円弧を周りに下書きしながら次第に線を重ねて整えていきます。一本一本の線は楕円だったり、微妙に曲がっていたりしてもそれも含めた太さで円に見えるのです。本人中心支援も「多様な支援メニューを重ねながら、本人らしさを確認し合う関係調整」ではないでしょうか。中心におられる本人も、揺れ動きつつ関係性の輪を重ねていって、次第に幅のある「マイサークル」を確かなものにされていくのでしょう。